どうも。takaです。今回は今回は、プロ野球で三度も三冠王を獲得し、中日の監督としても一度もBクラスになったことが無いというすごい成績を残した落合博満氏の著書、「不敗人生ー43歳からの挑戦」を読んだ感想について話していきたいと思います。
本の内容
1996年のシーズンオフ、清原和博氏が巨人に入団することになり、ポジションがかぶってしまうために押し出されるように巨人を退団し、日本ハムに移籍することになった落合博満氏の経緯が書かれています。
落合氏の巨人の4番としての役割
落合氏は、1993年オフに、「長嶋監督を胴上げさせるために来た」とFAで中日から巨人に移籍します。その時、すでに年齢は40歳で、衰えもささやかれた状況でした。なので、長嶋監督も、シーズン50本塁打という大記録ではなく、今の巨人に足りないものを与えてくれる存在として期待していました。
また、昨年に入団した松井秀喜氏に4番のエキスを注入させるという目的もありました。長嶋監督は落合氏に用がある際、松井氏と元木大介氏を遠征先で落合氏の部屋に行って呼んで来るように頼んでいたそうで、松井氏が部屋に入ると、落合氏はバットを持ってテレビを観ていたそうです。この光景から、落合氏は常日頃から野球を頭から離さずにいたことが分かります。
そして、落合氏は1994年の10・8決戦でも先制のホームラン、勝ち越しタイムリーを打つなど、大事な局面で結果を残しました。
以下が落合氏が巨人在籍時に残した成績です。
1994年 打率2割8分0厘 本塁打17本 打点65 出塁率3割9分3厘
1995年 打率3割1分1厘 本塁打15本 打点68 出塁率4割1分4厘
1996年 打率3割0分1厘 本塁打21本 打点86 出塁率4割0分3厘
衰えからか、トータルの成績は全盛期と比べると少ないですが、出塁率は高く、43歳になる96年も21本塁打を放っており、まだやれると思われる成績を残しています。
退団のきっかけ
落合氏は、巨人時代の最終年は8月末に死球で骨折して戦線離脱してしまいましたが、43歳になる年であるにもかかわらず、巨人時代の中では最高値の本塁打数と打点数を出しています。骨折しなければ100打点いったかもしれません。
しかし、このシーズンのオフ、清原氏が前から憧れていた巨人に入団するという流れになり、それから落合氏と球団の発言のすれ違い等で落合氏と球団との間に溝が出来てしまいます。それが続いた結果、落合氏は「清原君と勝負して負けるつもりはないが、どちらを使うかで長嶋監督の悩む姿を見たくない」と自ら自由契約を申し入れ、長嶋監督同席という異例の形式で退団会見を開き、巨人を退団します。
そして、オファーがあったヤクルトと日本ハムの中で、日本ハムは「生きた教科書として必要」という言葉を受けたので日本ハムに入団しました。
負けない人生とは能動的な行動を取ること
この本で、落合氏は「自分から巨人を退団したから自分は勝った」という発言をしています。落合氏は、高校時代も体育会の風習が嫌で部活に顔を出さず、大学時代もこれもまた馴染めず退学します。しかし、部活に出る出ない、大学を辞める辞めないは自分で決めたことで、辞めろと言われていた訳ではないです。
中日の監督時代も、退任が決まっても外に文句を言うこと無く、「もう来年のことを考える必要が無くなった」と言って受け入れています。
このことから、人生で勝つためには受け身ではなく、能動で動くことが必要だと思いました。その結果良くない方向に物事が運んでも、それは負けということではない。失敗は成功の元であり、恥ずかしいことでも何でもない。むしろ自分でこうしたいと考えて行動したのだから周りに比べてリードしている。だから勝ちと捉える。
この著書から、人生において、負けの時とは決まったことに対して受け入れられずにああだこうだと不満や文句を言うことが負けなのだと思いました。